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「平塚らいてうと市川房枝」
シリーズ 「日本人は何を考えてきたのか」(NHK)  第12回、最終回です。

「女たちは解放をめざす~平塚らいてうと市川房枝~」 (1月27日放送)

日本初となった女性だけの文芸誌「青鞜」を中心となって発行した平塚らいてうと、日本の婦人参政権運動を主導した市川房枝です。

彼女たちの運動も大正から昭和初期にかけての戦争と戦争に向かう暗黒の時代を通り抜けなければなりませんでした。
そして、そのとき彼女たちの信念は大きく揺さぶられました。

平塚らいてう、本名明(はる)は、明治19年(1886)東京に生まれ、明治政府の高級官僚だった父の影響でハイカラで自由な環境で育ちます。
しかし、当時国粋主義教育のモデル校であったお茶高に入学させられ、苦痛の学生生活を送りながらも、級友と「海賊組」なるグループをつくり、修身の授業などをサボタージュしたそうです。

明治36年(1903)大学は先進的な考えをしていた日本女子大英文科を志望しますが、父親の反対で家政学部に入学します。
しかし大学の勉強に幻滅し、明治38年(1905)から、禅の修業に励むようになりました。
この頃ゲーテなどに触れ文学に目覚め、与謝野鉄幹が主宰する閨秀文学講座に参加し、そこで森田草平と出逢い、明治41年(1908)に、心中未遂事件を起こし全国的に有名になってしまいます。

傷心の明は、信州の日本アルプスに心を癒され、雷鳥の気高い姿に自分を重ねました。

明治44年(1911)に、雑誌「青鞜」を創刊しました。
明治45年(1912)、茅ヶ崎のサナトリウムで5歳年下の画家・奥村博史と出逢い、共同生活を始めます。
当時の家父長制に反対し、籍をいれない事実婚を始めました。

大正7年(1918)には、母性の保護を国家へ要求した平塚に対し、与謝野晶子は「国家に母性の保護を要求するのは依頼主義に過ぎない」と批判し、これら論争に山川菊栄、山田わからが加わり2年にわたる社会的な論争へと発展してゆきました。

「青鞜」は、女性の文芸誌として始まりましたが、それに対する激しいバッシングにより、彼女たちは様々な問題に目覚めてゆきました。
先ほどの母性の保護もそうですが、恋愛の自由、家制度の問題、家事労働の問題 ・・・・

このようにして、大正8年(1919)に新婦人協会が市川房枝らの協力のもと、平塚によって設立されました。
主な要求として、「婦人参政権運動」と「母性の保護」が掲げ、当時女性の集会・結社の権利を規制していた治安警察法の改正を求めて運動を展開してゆきます。

市川房枝は、明治26年(1893)に愛知県に農家の三女として生まれました。
愛知県女子師範学校在学中に、良妻賢母教育に反対して同級らと授業をボイコットしたこともあったそうです。

卒業後、愛知県の訓導として勤務した後、名古屋新聞(後の中日新聞)の記者となり婦人の問題を積極的に記事にしてゆきました。

そして、1919年に平塚と出逢います。

しかし、夫の看病と育児をしながら活動する平塚とそうでない市川では、状況の違いが考え方の違いとなり、次第に両者の溝が深まってゆきます。

上野千鶴子さんは、これを分離型と総合型の対立と言われ、近代の女性解放運動のどこにもある問題だと説明されていました。
女らしい参加を目指すらいてうと、男並みの参加を目指す市川の違いは、職場での一般職と総合職の違いのようなものとしてあるという説明でした。

大正10年(1921)、市川は渡米し、全米各地の運動を見て回り、アリス・ポールから婦人参政権はあらゆる権利保護の第一歩であることを聞かされました。

大正13年(1924)、婦人参政権獲得期成同盟会が結成され、様々な立場の女性が大同団結しました。

昭和5年(1930)、第1回全国婦選大会が開催されました。

この頃から市川は、国策への協力姿勢をみせることで、婦人の権利を獲得していこうとします。
満州事変には否定的な態度を示しながら、それでも社会に婦人が向かっていくことは大切なことと、国防婦人会への参加を認めました。

昭和12年(1937)に日中戦争が始まると、国民精神総動員運動に加担し、婦人たちに戦争遂行のために節約貯蓄をするよう訴えてゆきます。

昭和16年、太平洋戦争が始まると、台湾の皇民化教育を推し進める役割を担いました。

昭和17年(1942)には、婦人団体は大日本婦人会へと統合され、翼賛組織に組み込まれ、市川は大日本言論報国会の理事に就任しました。

平塚は、婦選運動には参加しませんでしが、母という立場から、「軍国の母」や天皇の子としての軍人を賛美する文章を雑誌に載せ、戦争を支えてゆきます。

近代の戦争は、総力戦となり男も女も戦わなければなりませんでした。

戦勝国であってもしかりです。
出兵する夫や子供を精一杯励まし見送り、その代償として婦人の権利を獲得していったようです。

日本においても、婦人の戦争協力と参政権はセットでした。
市川や平塚の運動は、女性の地位向上のためのものが戦争への協力となり、一方母性の強調は天皇の赤子として国家に絡め取られてゆきました。

利用しようとしたのが、自らの首を絞める結果になりました。

しかし、戦争が終ってすぐに婦人の参政権が認められたのは、やはり市川らの活動があったからだと思います。

「日本は101番目」、これは番組の最後に紹介されていた数字です。

2012年に、世界経済フォーラムが発表した数字で、世界135カ国を対象に社会進出などでの男女平等の度合いを比較したランキングです。
男女間の雇用格差、教育機会、平均寿命、議会での議席数、企業の管理職の割合などを指数化した順位です。

このランキングは、数字の入れ方で多少の変動はあると思いますが、酷い数字です。

酷さの実感の乏しい自分自身をつくづく鈍感だと思います。

鈍感なことによって自分が傷つくのは仕方ありませんが、他人を傷つけているのに気付いてないんですね。
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