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「いつかはアイアンマン」を密かに目指して、ちょこっと頑張る姿を家族が見守ってくれています。
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大内文化
「戦国大名が築いた夢の都~大内文化 山口の旅~」

7月24日放送の「ろーかる直送便 あいたい」(制作NHK山口)です。
(中国地方向け放送 6月28日)

山口県には、下関市、宇部市、周南市、岩国市など経済的に発展した都市が多く存在し、これらの都市に比べ経済的な吸引力に劣る山口市が行政の中心であることになんとなく不思議な感じがしていました。

このように政治・行政・文化に特化した県庁所在地は、日本では唯一のところです。
山陽本線が通っていないのも不思議でした。
人口密度は、県内19市町村の内で12番目だそうです。

南北朝時代、大内氏24代・大内弘世は長門・石見を平定し西の京を目指します。
その中心に置こうとしたのが山口です。
まだ草深い山里に技術者を呼び寄せ、風水に基づいて町は作られました。
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真田幸村
「発掘!真田幸村の激闘~最新研究から探る 大阪の陣~」

7月10日放送の「歴史秘話ヒストリア」です。

戦国史上、最後にして最大の戦い、大阪の陣。
近年、大阪城をめぐる発掘調査で、徳川方に苦戦を強いたその鉄壁の守りの全容が明らかになってきました・・・・と、始まりまりました。

天正11年(1583)本能寺の変の翌年から築造が始まり、慶長元年(1596)に完成した大阪城、城下町ごと惣構といわれる堀と城壁で囲まれた城は、当時世界最大の規模と言われていました。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れ、大阪は石高65万石の地方都市となり、大阪城は秀頼という一大名の城となりました。
慶長19年(1614)、江戸よりこの大阪をさらに弱体化させる要求がありました。

どうしても飲むことのできない要求の数々に、大阪方は決戦を覚悟し、そこへは豊臣恩顧の武将たちが集結してきました。
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猪飼野 
シリーズ戦後史証言「日本人は何をめざしていたのか」第4回

「猪飼野~在日コリアンの軌跡~」(7月27日放送)

猪飼野、大阪市東成区・生野区にまたがる平野川旧河道右岸一帯をこう呼びます。

この名前の起源は古く、古代・仁徳天皇の時代にやって来てここに住むことになった百済からの渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術に長けていたことから、こう呼ばれるようになったそうです。

近代以後、この地は大阪有数の農村でしたが、日露戦争、第二次世界大戦の好景気を反映してこの地の周辺に住宅や工場の立地が相次ぎました。

1910年(明治43年)に朝鮮は日本により統治され、1922年から済州島と大阪を結ぶ君が代丸が就航します。

これを機に、平野川の大規模改修工事や大工業地帯となった大阪への労働力として、朝鮮半島から多くの人が海を渡ってやってきました。

1945年、終戦の時、日本にいた朝鮮人は200万人にのぼっていました。
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「ブラックレイン」
「ブラックレイン」 1989年、アメリカ

「ブラックレイン」

昨日に続き “さらば愛しのフィルム映画たちよ” です。

言わずと知れた松田優作の遺作です。
公開中に癌で倒れ、そのまま目覚めることなく帰らぬ人となったセンセーショナルな出来事は、いまでも思い起こすことができます。
スターというものは、こういう亡くなり方をするものだと信じたことを思い出します。

この映画で共演したマイケル・ダグラスが松田優作のことを大変気に入り、それによりハリウッド進出は約束され、その上ロバート・デ・ニーロからも次回作の共演のオファーが舞い込んでいました。

オーデションで役を掴み、日米の大スターたち(マイケル・ダグラス、高倉健、アンディ・ガルシア)と肩を並べるどころか、彼らの存在をも霞ませた存在感には、改めて驚きました。
(ちなみに、オーデションの一次選考・書類審査では落ちていたそうです)
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「アンタッチャブル」
「アンタッチャブル」 1987年、アメリカ

(原題 : The Untouchables )

アンタッチャブル

シネツイン新天地で上映されている“さらば愛しのフィルム映画たちよ”です。
(シネツイン新天地の年内閉館が決まり、広島でフィルム映画の観られる場所がまた一つなくなると思うと寂しい限りです)

禁酒法時代のシカゴを舞台に、ギャングのボス、アル・カポネに立ち向かった財務省捜査官ネスたちのチーム「アンタッチャブル」の闘いの日々を描いています。
この主人公エリオット・ネスは実在の人物で、アル・カポネを起訴に追い込んだのは実際の話ですが、彼のチームは当初50名からなっていたり、銃撃戦で死傷者が出たということはなかったようです。
「アンタッチャブル」という渾名は実際のもんで、ネスの部下へのカポネによる買収が阻まれたことからメディアによって付られたようです。
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「ピース・ミーツ・アーチ!」 (広島県立美術館)
「ピース・ミーツ・アート」

広島市内の3美術館による共同開催企画「アート・アーチ・ひろしま2013」の一環として広島県立美術館で開催されています。

会期は、7月20日~10月14日です。

ピース・ミーツ・アーチ!

「アート・アーチ・ひろしま2013」は、広島が一貫して発信してきたメッセージ「平和」を、広島とゆかりの深いイサム・ノグチの作品を鍵にして、アートの力で更に力強く「平和への希望」を発信していこうとするものです。

「ピース・ミーツ・アーチ!」では、「破壊から再生へ」「(自然との・東西の)対話」「未来へのアート・アーチ」の3つの章を通して、再生への想い、その模索と未来へと向かっていく力が表現された作品の数々を観ることができました。
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福寿院
酒蔵通り散策の最後、福寿院に参詣しました。

善応山福寿院円通寺、臨済宗妙心寺派のお寺です。

賀茂鶴酒造と亀齢酒造の間の狭い路地が参道です。

福寿院 参道

福寿院の歴史は古く、寺伝では聖徳太子の古道場であったとされています。
近くに安芸国分寺があり、この場所に国府が置かれていたのではないかという説がありますので、この説も説得力があります。

その後久しく廃寺になっていたのを、永正年間(1504~1521)に僧・江雲が開基しますが、再び衰微してゆきます。
それを万治年間(1658~1661)、広島興禅寺の僧・雲嶺が再興し、宝永3年(1706)に僧・実田が臨済宗妙心寺派として伽藍を整えてゆきました。

(↓) 山門です。

福寿院 山門
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酒都 西条 (その3)
酒蔵通りを代表する蔵のひとつ、賀茂鶴です。

構内の白壁、なまこ壁が酒都西条の雰囲気を引き立てています。

賀茂鶴

この地に賀茂鶴が創業したのは元和9年(1623)で、西条で酒の歴史が始まった延宝3年(1675)よりも50年以上古いことになります。
というのは、賀茂鶴は最初、醤油や味噌などの醸造業を営んでいて、後に酒造業を創めました。

先日紹介した三浦仙三郎もその一人ですが、西条には酒三大恩人といって市内に銅像が建てられている方が3人おられます。
橋爪陽、広島県工業試験場の初代醸造部長です。
もう一人が、木村静彦、法人組織となった賀茂鶴の初代社長です。

賀茂鶴は、木村静彦の父・木村和平が明治6年(1873)に命名しました。
「賀茂」は賀茂台地の地名を表していると共に、「かもす(醸す)」の意味を含んでいます。
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酒都 西条 (その2)
町の名が「四日市」から「西條」へと変わったのは明治の中頃です。

西条の酒造の歴史は、延宝3年(1675)から始まりますが、今日のように全国的なブランドとなるのはそのずっと後のことでした。

以前このブログで、安芸津の榊山八幡神社を紹介させてもらったときに書きましたが、明治時代安芸津の三浦仙三郎という酒造家が軟水に適した醸造法を編み出し、その方法を用いることによって西条は全国でも有数の酒処となりました。
(ブログ「榊山八幡神社」はこちら

明治の中頃に鉄道が引かれ停車場ができるのを機に、街道沿いの商家が酒造りを創め、醸造蔵が次々と立ち並んでいきました。

(↓) 西国街道から一本北の通りです。

酒蔵通り

なまこ壁と白壁、往時のままの黒と白の美しい町並みを維持し続けるのは大変でしょうね。
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酒都 西条 (その1)
山々に囲まれた銘醸の郷、西条の酒蔵通りの散策にでかけました。

最近、このあたりは仕事でよく通りがかり、通るたびに車から降りてのんびり散策をしてみたいと思っていました。
今日は念願の蔵元巡りです。

酒都西条のマンホール

京の伏見、兵庫の灘と並び全国三大銘醸地のひとつに数えられる西条には、10銘柄の西条酒があり、そのうちの8銘柄がこの酒蔵地区に集まっています。
「白牡丹」「賀茂鶴」「福美人」「亀齢」「賀茂泉」「西条鶴」「賀茂輝」「山陽鶴」です。

白牡丹㈱
(白牡丹株式会社)

西条の酒の起源は、延宝3年(1675)と言われています。

戦国武将・島左近の二男・彦太郎忠正の孫・六郎兵衛晴正が酒造業を創んだと記された文献が残っているそうです。
関ヶ原の戦いの後、世の中が平穏になると各地の大名は産業のひとつとしての酒造業を奨励し、大規模な酒造りが盛んに行われるようになりました。
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